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☆マサコのプロフィール
13才のときにグレン・グールドのピアノに 出会う。以来抱き続けたグールドに会うという夢を追って28才でカナダへ。後追い日記はその記録である。
属性はシャーマン。


☆ミクシに習って、ぬさんからの紹介状
不在の幻影から愛するひとを救い出し、グーグルキャッシュの中に愛のエクリチュールを刻印しつづける、GGの恋人。二人はもう触れあうことができないが故に永遠に惹き付けあうことができる、まるで恒星と惑星の関係のような、あらゆる恋人が夢見るユートピアに住むひとです。


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カテゴリ:エッセイ( 130 )

チャイコフスキー「四季」から4月

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< 待雪草の二人 > 

チャイコフスキーの「四季」の四月は「待雪草」。
「鬼ごっこの眠りの曲」

花の中に住む妖精2人のアニメのよう。

25小節目から始まる8小節の
右手の16連譜の上昇のモティーフは女の子。
左手はいささか遅れがちな男の子のステップ。

b0071688_21093838.jpeg


続く8小節は女の子が「や〜い」と言う付点四分音符が4つ。
続いて後半は男の子の「お〜い」の左手と
女の子の「ほ〜ら」の掛け合い。
一休みするのが、7、8小節目。
b0071688_21100600.jpg


そしてまた、鬼ごっこが始まる。


眠りに落ちかけるのは最後の5小節。
最後のpppのコードで、二人は完全に花の中で眠りに落ちる。
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〜〜〜〜〜

以下、さて誰の演奏が皆さんのお好みですか?

チャイコフスキー: 《4月 : 松雪草》
 *ヴァディム・チャイモビッチ
https://www.youtube.com/watch?v=hCKI7nflKfw


 *デニス・マツーエフ
https://www.youtube.com/watch?v=AY-M_OZB-qM



 *ウラジミール・トロップ  
https://www.youtube.com/watch?v=07KXmaHpzXo


 *ウラジミール・アシュケナージ
https://www.youtube.com/watch?v=5k782tukZrs



オーケストラとピアノヴァージョン
 *編曲&ピアノ Georgii Cherkin 
https://www.youtube.com/watch?v=PfvnTvkNydo






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by mhara21 | 2018-04-05 21:08 | エッセイ | Comments(0)

見つけた!田中希代子さんのソナチネ byモニカ

その存在は知っていたけれど、手に入るものでもなく諦めていた
田中希代子さんのソナチネアルバム1の4番と5番が
youtubeにアップされていた。
ここに残しておこう。
アップしてくださった takeshi nozawa さん、有難うございました。

ソナチネ4・5番 田中希代子演奏





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by mhara21 | 2018-03-09 09:29 | エッセイ | Comments(0)

韓国独立運動記念日に寄せて

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韓国語で モッ)は「できない」を表す。
英語なら「 can not」

韓国語には2種類の「オ」があるが、これは同じ「オ」でも口を縦に開ける
「『 モッ)は韓国特有の表現であり、
 日本語にはその状態に該当する言葉が、見つからない」
と聞いたことがある。

日本語では「粋(いき)」・あるいは「洗練された」と訳される。
(小学館 和韓辞典)
同じ小学館「朝鮮語辞典」では
「風流、風情、趣、味わい」が付け加えられている。

もう一つおもしろいのは、 멋도 모르다
「事件の成行き・理由がわからない、訳がわからない」とある。

南北分断の結果を生じさせた朝鮮戦争は、
朝鮮民族にとって、この 멋도 모르다 ではなかったか?
彼らは、外国からの勢力争いに巻き込まれただけ。
未熟な学習者が、考えた事なので、
朝鮮の人々が聞いたら、びっくりされるかもしれないけれど。

日本が朝鮮を支配することがなければ、
ロシア南下の危険はあったにせよ、アメリカが出しゃばって、
戦争が起きることはなかったでしょう !!




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by mhara21 | 2018-03-01 00:00 | エッセイ | Comments(0)

ペパーミント


チャイコフスキーのピアノ曲「四季」の五月は
「白夜」という題の曲です。

私はこの10小節目からの4小節に
いつも「ペパーミント」を感じます。

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みなさんが感じていらっしゃる
ペパーミント含有率No1の曲を教えてください。
私のように楽曲の部分でも構いません。



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by mhara21 | 2018-02-25 21:02 | エッセイ | Comments(0)

神戸紀行 上島珈琲

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さすがに図書館と買い物に行くのは疲れた。
昨日から「淀長祭」が開かれている新開地へと足を延ばす。
神戸の山々は、いつも美しい。
映画は始まっていたので諦めて、ぐるりを散歩し
上島珈琲に戻って、空いている奥のトイレ横の大テーブルに座る。

なんと、伯父が台北の家で最後に弾いたベートーヴェンのピアノソナタ
変ホ長調第3楽章のメヌエットとトリオがBGMで流れる。
天国の伯父が私を励ましているようだ。

こんな偶然があるのだろうか?
1、2、4楽章抜きで、あのメヌエットとトリオだけが流れる。。。
この曲は地味なので知る人も少ないことだろう。

世界の片隅で演奏された20代の死にゆく青年のピアノを、
ベートーヴェンも耳に止めてくださったことでしょう。


タバコ切れの女性が、私の近くでタバコに火を付け、一口吸うと、
慌ててトイレに消えて行く。

ここはトイレの番人席のようで、次々と男性ばかりがやって来る。
一人の使用時間がやたら長いせいか、とに手をかけては、
入れないとわかり、人が次々と消えていく。
朝顔だけの部屋があればいいのにとさすがに覗きはしなかったけど。

そこに70代と思われる蒋介石夫人宋美齢のようなご婦人が現れる。
まさしく大陸の美女。横には80代後半のようなご主人。
連れのカップルも中華ムード満載の4人組がランチメニューのご注文。

私はといえば、映画はやめて、そのぶんちょっぴり贅沢をして、
ブドウジュースを飲んで行く秋を惜しんだのであった。

 
  関連日記 ベートーヴェンPソナタ#18 E♭ op31-3  byマサコ
        http://kaikyou.exblog.jp/20252754/

   ①シュナーベル版
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   ②トーヴィ版
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   ③原典版
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この3つの楽譜のメヌエットの、11小節アップビートから8小節の部分を
比べて頂きたい。

最初のシュナーベル版には、CとFに♮(ナチュラル)がついているが、
二つ目のトーヴィ版にはどちらもない。
三つ目の原典版ではCには♮がなく、Fにはある。

果たしてこの差は何か??

私は、シュナーベルが楽譜の上でこのふたつの音、特にCの音を重要視して、
奏者の注意を引いたのだと思う。
この曲を弾いたことはないが、何度も歌っているときに、
この部分のハ音とへ音に特別な美しさがあることに気づいていた。

だからシュナーベルの楽譜を見たときにびっくりした。
まさにその場所にピアノには敢えて加える必要のない♮がついているのである。
このナチュラルは、他の記号で強調する方法がないので使った、と私は思う。

「この音に最高の注意を払って、フレーズの美しさを際立たせるように」
これがシュナーベルの指示だ。
改めて、シュナーベルの楽曲への鋭い理解、演奏者への配慮と教授法に
驚くばかりだ。

 「ピアノをどう弾いていいか、わからない時は、歌ってごらんなさい。
  そして歌った通りに弾けば、フレーズは美しく自然になるのよ」
 これは、昔、母からよく聞いた言葉。
 後にマリーナ先生からも同じことを教えられた。
 その通りである。

この曲からは、家族の慟哭が音楽を通して聴こえる。
ここには演奏している伯父の家族への思い、
そして悲報に触れる未来の家族の悲哀の心が表されている。

私はこの部分でいつも 祖母、伯母、 母の女性3人の痛烈な悲しみを感じる。

伯母からは、伯父亡き後、父親である石崎皆市郎が部屋の中で呻くように
「かずひこーっ」と呼ぶ声が聞こえたと聞いた。

2度繰り返されるこのフレーズの2度めの部分では、ハ音に♮はない。
その理由は、演奏者がコーダに向かって感情を抑えた死の準備をしているからだ。

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おや、クレッシェンドは、最初と2度めでフォントの大きさが違っているぞ。
 (写真ではあまり違話ないけれど、音符と比較するとわかる)
これは死の手前の命の一瞬の輝きを表す。
そしてそこから徐々に最後に向かって息絶えていく。

恐るべしシュナーベル。
その演奏と校訂に感謝。



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by mhara21 | 2017-10-23 16:35 | エッセイ | Comments(0)

秋の三冊

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久しぶりで姉のところで暮らしている。
懐かしい本棚を調べて、三冊取り出して思い思いに拾って読む。

お気に入りは「ショパンのプレリュード集 作品28」。
       トーマス・ヒギンズ編、松前紀男訳。東海大学出版会
全楽譜、アナリーゼ、考察と論評という構成。
「考察と論評」には作曲家シューマン、リストの他、
作家や詩人のこの曲への思いや形容が書かれている。
中でもジョジュル・サンドとアンドレ・ジイドのは長く、
この曲についてのユニークなエピソードを語っている。

前奏曲愛好者へのお薦め本。

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「銀の匙」 中 勘助 作 岩波書店

ずいぶん前に求めた一冊だけのワイド版の本。

日々、日本語が剥離していく私にとって、
もう一度、夏目漱石が絶賛した文章と
子供が感じ取った古き日本時代の生活に触れておきたい。


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「響ある運動づくり」 村田久遺稿集

著者を直接知っているのと知らないのでは
その人の書いた文章を読む時、差が出る。
実際読者は、知らない人、会ったことのない人の作品に囲まれて生活する。
この本の著者の場合は1992年からお付き合いがあり、今も夫人とお話する。
彼の一生を、折々に綴った文章と説明で追っていく読者となる。

いつも日本は土壇場だったのだろう。
ただ誰もそれを感じずに今日も生きている。
今度の選挙、日本の未来が決まっているのなら、
いつの選挙だって、決まっていることだったろう。
日本人が急に変わることなどない。
日本人が重要と思わないもの、政治、社会、他者への関心。
その反対の人生を生きた方の記録。



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by mhara21 | 2017-09-27 15:06 | エッセイ | Comments(0)

グレン お誕生日おめでとう!

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写真:グレン・グールド 写真による組曲より


85歳、おめでとう。
子供の時からユニークな坊やだったあなたにこの歌を贈ります。






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by mhara21 | 2017-09-25 00:00 | エッセイ | Comments(0)

チアーニの「Bach:パルティータ#6」に寄せて


Dino Ciani plays J.S. Bach, Partita No. 6 in E minor, BWV 830
- Live (1971)


もう1曲のバッハ
少年時代のチアーニが
バッハを弾いた後、
Dino Ciani speaks and plays Debussy - Rare Video RAI

神様再登場
・トッカータ
 素敵な演奏。テンポも適切。音の伸びも理想的。
・フーガ
 強弱の微妙についた クレッシェンド、ディミニエンドの美しい。
 神の悲嘆にくれる様子。
 ソステヌートは地球へのダメ押しのような気持ちを表している。

・アルマンド
 再び神の人間に対する感情の音を表す。

・クーラント
 「ええいッt、もうヤケクソ!!! 
  いっそのこと女でも強姦してやろうか ?」
 「女湯の覗きくらいじゃあ、おさまらない」

・Air
 グールドと正反対のヨーロピアンの解釈。
 でも、この気弱な神さまは、トボトボ街を歩くだけ。
 切ない気持ち、ため息だけは、ソプラノにしておこう。

・サラバンド
 神様「もうやだ~」@酒場
もうやだ~(悲しい顔)涙泣き顔ダッシュ(走り出す様)泣き顔泣き顔泣き顔あせあせ(飛び散る汗)泣き顔
  どなたか一緒に飲んで差し上げて。。。

・Temp do Gavotta
 夕陽新聞・隔日新聞・しんぶん青旗・汚教新聞・週刊誌「地球」 。
 各社一斉に「神様の片思い」を報道する。

・Gigue
 神様の記者会見の様子@地球人記者クラブ

〜〜〜〜〜

大好きな曲を大好きなチアーニの演奏で聴くことが出来て、
感無量の時を過ごしております。

少女の日にグレン・グールドの6番にどれだけ引き込まれたことでしょう。
32年前彼の演奏から生まれた連想は.........。

そして今日、その新たなバージョンを書くことになりました。

この曲をバトンにして皆様の幻想、空想を書いてください。


 .......ところで.......

..........この作品の作曲者は、勿論バッハ夫人でしょ?
グッド(上向き矢印)ウインク


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by mhara21 | 2017-05-27 11:19 | エッセイ | Comments(0)

WINTER AT SIXTEEN :Visit of Zarathustra

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I was born in Himeji, Hyogo Prefecture, on September 16 , 1952, the
youngest of four children. I grew up with my parents, my mother's
parents and brother and two sisters in Akashi City where my family
moved when I was two.

It was my grandmother who had a strong influence on my life till
I became ten years old. She had graduated from Tsuda Women's
College and taught English.
She looked like a wonderful person to me as compared with my
mother, who was worn out in raising her children and also did not
seem to be hitting it off -- as even I, a child, could see -- with my
father.

My grandmother and I used to sleep together in futon at night after
she read books to me. I guess I was looked after with great care.
She let my elder sister, a primary schoolgirl then, and me listen to
the "Basic English " program while she, too, listened to English
conversation programs intently.
I remember that I came to understand a pure aura emitted from her
in her wholehearted love for learning.

She passed away in 1962. Then years after that was a period of
darkness for both my mother and me.

My family folks, as none of them were in good health, shared the
agony with one another.
I seemed to be the focus of the family members' empathy.
Born weak, I began to have more fits as years passed by.
Attacks of fever stopped me from going to school at Grade 5.

The more I suffered, the more neurotic my mother became about
the difficulties in her marriage. This bonded us closely as we tried
home treatment or therapy from every professional we knew.

My experiences were beyond description.
Like Job in the Old Testament, there were more and more difficulties,
pain and despair gnawing at my body. I barely managed to graduate
from the primary school a year later than I was supposed to.
My disappointment at not being able to attend a junior high school
made me just as neurotic as my mother was.

I was thirteen. What I was living for then was the music played by
Glenn Gould, whom I came to know about around that time and
learning English on the radio to prepare myself for meeting him one
day.

It was the summer when I was fifteen.
Coming back to Akashi after visiting a doctor in Tokyo, I was so
desperately lonely that I needed to talk to my dearest Gould.
So I thought of tape-recording Back's Goldberg Variations and sending
a copy to him, as my mother's piano instructor recommended.
What other hopes were left with me ?

The sheet music of the Goldberg Variations was bought in Tokyo
by my mother's elder brother who died in the war. He took it
back to Taiwan, but I have heard that he said he would be quite
happy to give it away to whoever could play this difficult piece.

When my mother was repatriated from Taiwan after the war,
she left the music with one of her friends as she could not take it
with her. It was sent back later with my uncle's signature on it.
In spite of the lack of interest in food and getting little sleep at night
because of the pain, I had the will power to master this music
in an amazingly short time. I was determined to get myself up
when I collapsed. I would then take a break and finally seat myself
in front of the piano.

In December that year, a shiatsu therapist told me,
"You see genius is but one remove from insanity. You might lose your
talent for playing the piano if I treated you."

With my time drawing somewhat nearer, I did not fear the possible
consequences. I had three sessions of treatment with him and did lose
the incredibly movement of my finger tips, the beautiful tone and the
"elan vital"--all along with the drastic changes in my condition such as
regaining my appetite and becoming able to sleep well.

To make things worse, I was told to go to school in April the following
year when I was supposed to be in Grade 9 (instead of Grade 10).
I could not possibly picture myself being at school ; I had been away
from the regular school curriculum for so long that I was at least five
years behind students of my age, and the classes would offer nothing
but preparations for entrance examinations for high schools.

All of these entangled with my difficulties peculiar to puberty threw me
into the abyss of despair.
My hopes and efforts were rejected, my precious treasure was taken
away all of a sudden, and the cry of my bleeding heart was ignored.
At that time, meaning of life, health or whatever else was all muddled up.
And yet, as I always looked cheerful and high-spirited, people criticized
me constantly for being "overprotected," "schoolphobe," "spoilt," etc..

Although I had already been sick in the previous year, my condition
became far worse in 1969. The facial pain and the toothaches were
particularly severe, making my life a hell on earth.
My body turned rigid --- on one side and then on the other --- every
night between twelve and two o'clock.
Feeling as though rheumatism and neuralgia were hitting me all over,
I had no choice but to rely on my extraordinary spiritual power in
enduring this excruciating pain.
I kept the room temperature unusually high because of the shivering
sensation I had. I had to change clothes as the part of my body
the pain was attacking got sweaty; but the pain did not help me stay
still and I had to keep moving around in the house during the day.
It was the state of sheer madness.


It happened for five days, starting probably on January 21.
My mother was tired out and asleep after tending me during my usual
dreadful fit.

I was all by myself, crying, as I recall, over my sense of despair that
nobody had helped me out of the attacks of the pain and that my efforts
over the years to become healthy had been totally futile.
Realizing that way under the frozen sea was another world of darkness
where I could not even see my finger tips. I felt as though heaven and
earth were crumbling down together.

I yelled out of my anguish :
"Even God cannot save me form where I am now.
How could He exist then? "

Right then, I heard the Aria from the Goldberg from far away in heaven.
With that music came a beautiful spirit who looked like a hermit.
The spirit picked me up and flew miles and miles till we reached a
mountain.
It felt like a world surrounded only by gratuitous devotion and love by
all the artists in history and their earnest admiration for beauty.

Although I was rolling all over on the bed because of the pain and not
having a snatch of sleep, part of me was completely away on the
journey with this spirit.

"You are crying now," the spirit told me, "but your illness will be cured,
and you will be playing the piano when you are fifty or sixty.
The music you will play then will have the power to always find crying
children, just like you. Those children, too, will come to know
themselves and rise. Do you understand ? It is the truth of life.
It is the world of the eternal."

The same thing happened in the same sequence, at the same time
--- around four o'clock --- and for five days.

On the last day, the spirit added, "I have been guiding you this time,
but climb up yourself next time."

We left the mountain and were still flying, this time, to see the sunrise.
As I saw the pale light of dawn coming onto the earth through the
glass window, I knew intuitively that that light was me.
This intuition flashed upon me, like lightening, for five days.

It is October 6, 1990.
I am a little puzzled because I have written, at one stretch, half of that
incident (What else could I have written if that incident was the only
thing to write about in my youth.).
Perhaps I was a child of great fortune to be able to be awakened to the
meaning of the human being as phoenix through that intense experience
at the age of sixteen.

In November, 1969, my sister and I started hand -copying sutras at an
apartment in Miyazaki City on the advice of a psychic healer who lived
there.
"It is the karma of the Itos' ancestors." she said, "that has afflicted
your life. You were born at God's will to purify their souls."

Twenty-two years later, in the fall, my mind is wrapped in various
thoughts --- Nietzsche's Zarathustra and eternal recurrence,
the teaching of The Reverend Masahisa Goi (which I came to know about
later ), my dream of going to Canada (which came true), and my still
being weak ---all like scattered clouds.

I must put down my pen now because I do not think I could write any
more.
Well, I also feel I can see in the readers' minds that my story is too
other-worldly.



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by mhara21 | 2016-11-30 10:16 | エッセイ | Comments(0)

訃 報 Marina Geringas

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私にとってグールド並みの巨星だったトロントでの恩師マリーナ・ゲリンガス先生。
彼女が今年6月20日逝去されたことを知った。
トロント大学音楽部のウォルターホールで偲ぶ会が行われ、
映像作家の一人息子エリックさんが司会する動画を見た。

偲ぶ会の様子 1時間40分のビデオ
Marina Geringas: A Celebration of Life


懐かしい夫君のヤコブさんの写真がなかったことが気になった。
マリーナの交友は世界各地に広がっている。
かつての教え子、友人が語るマリーナ像は、どれも私が知っている先生だった。
先生は以前、
「どうして日本人は助け合わないの? 
 ユダヤ人ならあなたのような音楽家をもっと助けるわよ」
と言われたことがある。
その言葉を思い出す度、いつも田中希代子さんがユダヤ系だったらどんなに守られたかと思う。

幼き日、サンクトペテルブルグから移住してきた室内楽演奏家のヴァディームは
彼は彼女のことを「マリーナおばさん」と呼び「、ロシア語を習っていた」と聞いて羨ましかった。
「あんなに美しくロシア語を話す人はいない」と言っている。
先生のロシア語は、自然界や宝石が光るようだった。

今年5月の最後の電話では、77歳の英語の美しさに圧倒された。
多くの人の「彼女のリリカルな声」にしみじみ、
「あの声は人に愛を与えていたのだ」と思った。

In Memoriam of Marina Geringas



49人の友人知人のメッセージ
This Guest Book will remain online permanently courtesy of Karen Quinton. - See more at: http://www.legacy.com/guestbooks/thestar/marina-geringas-condolences/180440713#sthash.WeA1onwB.dpuf


記事
MARINA GERINGAS
Obituary

http://www.legacy.com/obituaries/thestar/obituary.aspx?pid=180440713

Marina Geringas nurtured talent of Canada’s young elite pianists


Teacher of elite pianists played last concert for Music in the Afternoon in 1982.


Friends and Colleagues Pay Tribute to an Exceptional Teacher
(Royal Conservatory)


Marina Geringas 写真

facebookにもこんなページが。。。
Remembering Marina Geringas

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by mhara21 | 2016-11-11 13:03 | エッセイ | Comments(0)