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☆マサコのプロフィール
13才のときにグレン・グールドのピアノに 出会う。以来抱き続けたグールドに会うという夢を追って28才でカナダへ。後追い日記はその記録である。
属性はシャーマン。


☆ミクシに習って、ぬさんからの紹介状
不在の幻影から愛するひとを救い出し、グーグルキャッシュの中に愛のエクリチュールを刻印しつづける、GGの恋人。二人はもう触れあうことができないが故に永遠に惹き付けあうことができる、まるで恒星と惑星の関係のような、あらゆる恋人が夢見るユートピアに住むひとです。


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マリーナ  

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マリーナ・グリンガスさんは、トロント音楽院での私のピアノの先生である。

初レッスンは83年9月で、最後のレッスンは86年8月。
約3年の間に私はカナダのグレードシステムの最後のピアノ実技テストを済ませて、さらに伴奏者としての訓練を受け、ピアノ教授法をマリーナから学んだ。
そして多くの時間を師の教授法見学のため共にスタジオで過ごした。

健康状態の不安定な私がトロントで生活を続けられたのは、師の私に対する深い理解と愛による。
その指導力の素晴らしさは教師として「天才」と呼ばれるにふさわしい。
そして、私がカナダを離れて6年あまりになる今(94年現在)、マリーナは私の無二の親友でもある。

1. 出会い
 人と知り合い、おつきあいが始まる時に、友情が育ちやすいと私が思っている条件がある。
 a. その人を度々見かけていること。
 b. その人の「まさか人に見られているとは意識していない」時の顔の表情を幾つか知っていること。
 c. その上で、すでに「この人と友達になりたい。もっと知ってみたい。」と自然に思っていること。

 これらの条件が揃ってお付き合いが始まる人は、終生友人として残る可能性が高い。

音楽院生だった頃、家にピアノのない私は音楽院で練習した。
だから、院内で見かけることのできる人は沢山いた。
先生、親、子供、大人の生徒、職員が多く出入りする音楽院は、よそ者の私でも「顔だけ知っている人」がだんだん増えていった。

マリーナの存在に気づいたのは、1年生の後期だった。
その頃、私はギリシャ人の先生に習っていて、幸せではなかった。
そんな頃マリーナは私の視界に入ってきた。
最初見たときは子連れだった。子供を守るような物腰、責任感の強そうな横顔に、生徒を連れて歩いていると判断した。

2. 友人の条件
a.病弱
良い友人になるためには、似かよった経験がある方がいい。
病弱者には病気がちの人が、お互いの辛さがわかりやすい。
マリーナと私は、この条件に恵まれた。

マリーナは、1939年5月リガで生まれた。
2才の時に父がコミュニストに殺され、ユダヤ人のマリーナは差別の中で成長する。
そしてリトアニア出身のヴァイオリニストと結婚後、国を出た。
イスラエル滞在の後、ベルギーに出国。

ベルギーの難民収容所で発病。
彼女の表現による「風をひいて一番ひどい時の状態が続く」体を抱えて、カナダに移住。
医師の処方により、アスピリンを大量に飲んで、なんとか普通の体にしているとの事だった。「そんなに薬を飲むものではない」と言っても、「こうしないと体がもたない」との返事だった。

後年、私は柳澤桂子さんと知り合った。マリーナとよく似た女性科学者は「セレナールを大量に飲んでも、眠くもなんともない」と述べておられ、天才というのは、鋭敏なあまり脳の興奮や冴えが凡人とは違うのではないかと思った。

b.トコトンやる
病弱者同士、コンビを組んだので、特に生徒の私はありがたかった。
これに加えて、二人はお互い生半可を嫌う質に生まれついていた。
どんなに体がきつくても、ズルができない。
品質のためになら生命を投げ出すような学習態度。
与える方も、教えを受け取る方も「完璧」を目指す、これがマリーナと私の「絆」だった。

「トコトンヤル」については、私が「一音嬢」と名付けた思い出がある。
マリーナに師事してすぐに、Cメィジャースケールの練習をいただいた。
5本の指で弾くのではなく、人さし指、中指、薬指のどれか1本に決めて1オクターブずつ、言われたフオームと目的の音をたてながら弾く練習だった。

普通の人なら、長くやれない単調な練習を、私は毎日2時間やってしまった。各指20分ずつで、研究している喜びのうちに1ケ月経った。この運動と平行して、ショパンのプレリュード4曲をマリーナに言われたとおりのやり方で弾いた。

生徒のやる気と新しい教え方が結び付いた時、大きな進歩が起こった。
私は鍵盤に対して腕のコントロールのルートがわかってきた。
そして美しいレガートが弾けて、曲の強弱が良くつくようになった。

この「トコトン」は、質への追及だけではなかった。
すさまじい量の読譜もマリーナが私に与えた「機会」の1つだった。

私が、この厳しい修業中に下宿の部屋を掃除したのは、3年の間に3回だけ。
1年のうち数ケ月は「病気でピアノを休む」を繰り返すパターンでついていった。

3. あなたの家族に似てますか?
マリーナは私の母と祖母にそっくりだった。
気性の激しさでは祖母。見通しの正しさと理知性では、母を思い出すことが多かった。

84年8月、私はARCTを受けた。グレン・グールドが12才の時に習得したピアノ実技と同じ試験である。
マリーナは、私に受験曲目だったプロフィエフの「束の間の幻影」の全曲レコードとプロコフィエフの伝記を下さった。

先生からのプレゼントを、驚いたことに「私の子供を、教え続けたいからだわ」と受け取る親もいる。
マリーナは、生徒にその曲集が持つ全天体を知って欲しいと願っていただけなのに。

4. 友情の色どり
人間は相性のいい人と出逢うと、その人にまつわる人脈で良い人にめぐリ逢うことが多い。
マリーナの場合、夫君のヤコブさんと私はとても仲良くなれた。
ユ985年、レッスンでバッハのジャーマン・コンツェルトの第2ピアノを弾いた。

マリーナは、私が夫君の生徒達と仕事ができるよう計画。
4ケ月後、私は伴奏者としてデビューした。

この時から、グリンガス氏は音楽院で、誰も辺リにいない時に限って、私に「頬ずり」をして下さった。通りすがりになさるから、とてもおもしろかった。
私は先日、電話でトロントのマリーナ先生にその事をばらしてしまった。
世界一、憧れていた学校でのヴァイオリニストの「頬ずリ」。そういえばヴァイオリンはこすりつけて音を出す。

5. 苦難を分ち合えますか
そのグリンガス氏がアルツハイマーになり、90年の8月に亡くなった。
マリーナの家族は、息子が一人だけになってしまった。

帰国後払は、毎日のように便りを書いていたが、コリアーナの訪れ以後、シャーマンとしての仕事に追われた。マリーナと私のコミュニケーションは、毎年5月12日の彼女のバースデーに贈る花と電話だけとなってしまった。94年の夏は腕の手術でギブスが取れずにいたマリーナ。

そんなマリーナと私を再び結び付けるのは、探していたチャイコフスキーの「四季」の原案となった12の詩である。
トロントから送られたロシア語の詩は、今、詩心のある方の訳を待っている。
こうやって友人としての私達の思い出と話題が増えることが嬉しい。

そして、霊の事を信じないマリーナが、シャーマンとしての私の苦悩を理解して下さるようになった事が嬉しい。

6. マリーナの世界
マリーナ・グリンガスの音楽の世界には黒が沢山ある。
一口に黒と言っても、木綿、エナメル、絹、皮、化セン、木を染めた黒はそれぞれに全く違った黒である。その黒の違いをピアノで感じることが、マリーナを通して出来た。「墨」の黒はどうだろうか?漆器の黒に似合う金と銀の箔のような色音?
「黒」という色は深遠さを表す。青や赤、緑にしても、黒みがかった色もある。
マリーナは、私の出す軽い音を表面的でない限り、そのまま認めて下さる力量があった。

世界のピアノ音楽界は大きく、ドイツ系とロシア系に分けることが 出来るという。
ドイツ系の代表的なピアニストはアルフレッド・ブレンデルであろうか?

マリーナは完全にロシア系である。なめし革のような、少しネトッとするロマンティシズムは、ロシア系の音楽には不可欠で、ドイツ系のゴツゴツした荒い美意識とは根本的に異なる。

マリーナとその音楽から追って来る激しい気迫、といったらなかった。
特に子供に音色の違いをわからせようと、ご自分で弾いてみせる時のコントラストの激しさはない。息を飲み、ツバが飲み込めなくなるショックを与えられる。

ご自身の演奏は、控えめでバランス感覚に満ちたものだけど、生徒の演奏は、楽譜から飛び出るような爆発的なものを好んでいらした。

教授法は、あれもこれもと雑多な楽曲を教えるのではない。
ひとつずつ選りすぐった楽曲を、この目的のためにと、分類してあった。
だから同じ曲を同じ生徒に何ケ月も教え込む。

テクニックは、バレーのパターンのように教える。
そして生徒の表現については、私に関しては、「ああしなさい」とか「どうして、そんな事するの?」とか「止めなさい」とかの発言はなかった。
基本を手伝うと後は、生徒自由にさせていた。

でも「このドバカは、一体何年ピアノを弾いているの?」と言われたこともあった。フレージングが鈍く、和音を奏でる際に、バランスの調整がつかないとダサイ音楽になる。こんな出来の時があると怒っていらした。

7. 終わりに
音楽を通じてマリーナと作った思い出には、限りがない。
ショパンのプレリュードでは、マリーナは、No.13が、私は、No.11が好き。
ある時は、お好きなハイドンのソナタのメヌエットを「オルゴールように弾いて欲しい」とおっしやった。

マリーナを思うと、国家、民族、歴史、人間の苦悩の一式が頭に浮かぶ。
二人とも幾多の困難と絶望をくぐり抜け、ようやくトロントでめぐり逢えた。
マリーナの全人生は、音楽そのものである。
音楽が好きな我々の友情は、天国までも続くことだろう。

    1994.8.10(海峡ペーパー版8号から)
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by mhara21 | 2014-02-15 14:43 | エッセイ | Comments(0)
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