合い言葉GG
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☆マサコのプロフィール
13才のときにグレン・グールドのピアノに 出会う。以来抱き続けたグールドに会うという夢を追って28才でカナダへ。後追い日記はその記録である。
属性はシャーマン。


☆ミクシに習って、ぬさんからの紹介状
不在の幻影から愛するひとを救い出し、グーグルキャッシュの中に愛のエクリチュールを刻印しつづける、GGの恋人。二人はもう触れあうことができないが故に永遠に惹き付けあうことができる、まるで恒星と惑星の関係のような、あらゆる恋人が夢見るユートピアに住むひとです。


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もしもパルティータ#6が?

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もしもゴルトベルク変奏曲のアリアがバッハの妻アンナ・マグダレーナ・バッハの作曲だとしたら、
私は、パルティータ#6も夫人の作曲のような気がする。
トッカータ・アルマンド・クーラント・サラバンド・エア・ガヴォット・ジーグ 
どれを取っても、他のパルティータに比べ、ゴルドベルク変奏曲のアリアに準ずる昇華された永遠性を感じる。
調性もト長調の平行短調であるホ短調。

今までにグールド以上の演奏を聴いた事がないし、弾く人も極めて少ない。
シンプルな生活を好んだグールドは、東洋ランの美しさ、激しい情熱でこの曲を弾き切っている。
特にクーラントの32連符は、仏教界の如来の指のようにしなやで、永遠の悟りのインスピレーションに溢れている。
グールド最愛のパルティータだった#6。
この世で唯一、バッハの音楽にあるドイツらしさではなく、東洋の神秘の心髄を奏でたグールドの真髄は、この曲の演奏に溢れる。

しかしサラバンドに、私のように世界中の酒場にいる男性の心情を強力に想像する者は、
サラバンドだけは、ひょっとして夫バッハの作曲かな?と思う。
バッハも酒場に行きたかったかも?
もしも酒場でのバッハということであれば、私はこのサラバンドをお薦めしたい。


〜〜〜〜〜〜〜
BS世界のドキュメンタリー選「ミセス・バッハ」
バッハの作品を作曲したのは、実は彼の妻だったのではないかという、音楽ファンの間ではよく知られた話の真偽を解明するため、古典音楽の研究家が筆跡鑑定や文書分析の専門家らと共に調査に乗り出す。バッハの2番目の妻アンナ・マクダレーナは声楽家であり、バッハ後期の作品の原譜には、彼女の署名がある。アンナはバッハの音楽に多大な貢献をしたものの、その功績は後世に語られることがなかった。果たしてその真実とは?

Mrs Bach Promo.mov(英語版)



Komponistin Frau Bach (ドイツ語版)




以前のパルティータ6番に関連する日記
パルティ−タNo.6 




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by mhara21 | 2016-05-26 10:51 | エッセイ | Comments(0)

後追い日記1986年10・最後のテスト (5月)

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#5月最後のテスト

5月に入ると実技テストを受ける人達の伴奏で忙しかった。最後に残った歴史のテスト準備は何も出来なかった。過去2回のテストでは覚えすぎていて時間が余り、今回は何も覚えていなくて時間が余った。結果は何と59点。試験管が1点お恵み下さり、何とか60点で合格させて下さった。この1点の贈り物を最後に卒業に必要なテストは全て終った。

その頃はトロントに住んでいてもグールドを思うことはあまりなかった。85年10月にお墓の前で「僕のお墓に1人で来ないでね」と言われて以来、お墓参りに出かけることはなく、「59点」の報告もしなかった。数年後「『シャーマン』としてグレン・グールドの言葉を聴いていたのは本当だった」としみじみ思えるようになるまで、私にとってグールドとのテレパシーの交信は、非現実感に溢れるものだった。現実感がないというより、いつも信じたくない出来事だったのだ。

相変わらずのウサ晴らしは買い物だった。毛皮の帽子2つ、安売りのクツ3足‥と街中をさ迷っていた。


86年11・ピピンとエイプリル(6月) へ






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by mhara21 | 2016-05-20 00:00 | 後追い日記86年 | Comments(0)

the pink 典型・精華・極致

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家の植木に「イラガ」やその他の虫が付くので、何年も抜きたかったけど、
次姉が言うことを聞いてくれなかった。
バベ樫(馬目樫)の新芽にはアブラ虫の幼虫が好んでたかる。
この幼虫は必ず私の身体に入ってきて、噛み付くのだ。
その痛いこと、後々腫れて辛いこと。
しかし植木屋さんは「アブラ虫の幼虫に噛まれる話なんて聞いたこともない」と呆れていた。
去年、そのバベをようやく抜き、その跡地に970円で買っていた寄せ植えをそのまま移植した。
すると、ああ、なんということでしょう。
いくら頑張っても根付かなかったナデシコの花がようやく庭にも咲くようになった。
「カワラナデシコ」を愛していた母は他のナデシコも咲かせていたのに、
私とは相性が悪い花だと諦めていたのだった。

  紅のつゆにあさひをうつしもて
     あたりまでてるなでしこの花
         ( 拾遺愚草上夏十首)
これは藤原定家の歌である。

小さな洗面器のような広がりで咲く撫子は、私の宝物。
その輝かしい色合いは、英語でただ「ピンク」という名と付けられている。
(dianthus, gillyflowerともいう)

グールドは私にとって光源氏と同じ。撫子はその墓に咲く私のシンボル花。
お墓のゴルドベルクアリアのプレートマンションに、沢山のGファンと押し合いへし合いで住む。
お墓参りに来た世界中のGファンがこぼす真実の涙に、その人にだけ見える撫子の花になって交流するのだ。

多分、グールドが感激して、その人を撫でに行ったら、パシャと手を叩くと思うけど......笑・涙?
叩くのはGの手だけです。


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by mhara21 | 2016-05-17 11:25 | エッセイ | Comments(0)

マリーナ(@トロント着地記念日)

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    photo by Slavica Ninic @Serbia


かつての師の77才のお誕生日にトロントに電話する。
相変わらず、彼女のピアノと同じ輪郭がはっきりとした粒の揃った言葉。フレージングとリズムのよい英語だ。
トロント時代、音楽院内で夫君と会話で美しいロシア語をたくさん聴かせて下さった。
こちらは小学生のような英語で近況報告。少し自分の書き物の話をしたら、
「出版されたの?」と聞かれる。「ブログよ」と答えるとギャフンと失望なさっていた。

5月の楽しみは朗読の時間で「蓼喰う虫」を聴くこと。
テーブルに本を開いて置いているが、この年になると人の声を聴く方がたやすい。
谷崎の凄い所は、通俗小説を読んでいる間に夢幻の世界に連れて行くことかな?
長谷川稀世さん(名優長谷川一夫のお嬢さん)の声が硬質で、朗読らしくて気持ちがいい。
昔は日本的な芸術に惹かれていなかったので読みにくい部分もあったが、今は親しみを覚える。

この頃ようやく潤一郎や荷風が明治の西洋の猿真似を嫌がっていた理由がわかるようになってきた。

この間、奈良に行く車の中で
「アメリカが奈良や京都に爆弾を落とさなかったのは、国宝に配慮してのこと。いい所があるのね」と言ったら
「とんでもない。京都に落としたら、どのくらいの効率で破壊できるかの研究までしていた」と教えられた。
マッカーサーに「天皇が国民の命乞いをされた」という話同様、作り話だったのだなぁと思った。

世の嘘を見破り、その猛々しさを跳ね除けて快適に暮らすには、情報と知識が多い方がいいのか? 無関心がいいのか?悩む。



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by mhara21 | 2016-05-15 00:00 | エッセイ | Comments(0)

第44回ローザンヌ国際バレエコンクールを見て

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第44回ローザンヌ国際バレエコンクールを見て
いつもながら、小山久美先生の解説に心を打たれる。
流れるように愛しさを与える種々様々な形容。
芸術を形作るためへの柔らかい提言。落ち着いていて優しい。
よほど純粋でバレエと人がお好きな方なのだろう。
一つ一つの言葉の選び方が詩のよう。

コンテンポラリーヴァリエーションは、クラシックのバレエと違って、
同じバレリーナの特質がもっとムキ出しになり、私には実力の判断が活発になる気がする。
クラシック部門の形容や評価は、いつもほとんどできない。
舌をちょん切られたスズメの気分。
「いいなぁ」「なんだかよくわからないなぁ」で、毎年眺めている。




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by mhara21 | 2016-05-12 00:00 | エッセイ | Comments(0)

田中希代子さんとコロン劇場 

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今期のスペイン語講座は、スペインだけでなく南米のスペイン語を並行して教えてくださるので、面白い。
このような試みは以前、アラビア語講座でもあった。
この内容は「間違えたって平気」みたいな気楽を生徒に与えるから心が広やかになる。

今日は、アルゼンチン流のスペイン語で、コロン劇場の話が出た。
私はあっという間に田中希代子さんの思い出に包まれた。

田中先生は、世界の三大劇場と言われるコロン(これはコロンブスのこと)劇場でサンサーンスのピアノ協奏曲第5番を弾かれて、大喝采を受けられた。
こうして田中希代子さんの演奏を振り返ると、田中先生はすべてこの世のお別れとして音楽を奏でていらしたような気がする。

その儚さは、心の汚い人には、満足を得るものではなかったろうし、控えめな美しさは、我の強い人々には、物足りなかったかも知れない。
田中音楽内容は、大ラテンである一般大衆を撫でて回すようなスペイン語の雰囲気はしない。
かといって、がめつい強引なお金の、もしくは戦争国家の英語の音もしない。
秘やかな少数民族の稀なる美しい言語のピアノの世界だった。

田中希代子さんに最もふさわしいファンは、美智子皇太后だけであろうと、傍迷惑ファンである私はシュンとしているのだ。
お二人は、きっとお茶目でお笑いが大好きな、伸び伸びしたお嬢さんたちだろうと秘かに思っているけれど....。



サン=サーンスのピアノ協奏曲第5番「エジプト風」 pf田中希代子







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by mhara21 | 2016-05-11 15:12 | 田中希代子 | Comments(0)

徽宗(きそう)の書

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去年、台北の故宮を訪れた帰り道、同行者が
「まさか、徽宗の書が観れるとは思わなかった」と話した。
そういえばびっくりするような書体の文字があり、呆気に取られていた。
「私も見たわ。あの人、誰なの?」
「中国の王様、誰にも真似されないように独特の書体を作った人だ」

帰国してから徽宗、北宋第8代皇帝の書と画に関する録画を見た。
私は、鳥が嫌いで、人が一番強く思える時は、鳥のように見える時。
絵に描かれている鳥は見るのもゾッとする。
だから敬遠気味だったけど、一枚の風景画に天に登るほど心を打たれた。
それは私にとって、馴染みある表現、空間である。
その画は、シュナーベルが弾いたベートーヴェンピアノソナタに視えていたものと同じだった。
と同時に嬉しさがこみ上げてきた。

時々、私はシュナーベルを一人で聴いて判断して好きになったのではないことが気になっていた。
大ファンの母が隣で喚いた
「ほら、この小さな音。
 この長いフレーズ、今やっと終わった。
 このリズム感etc....」
で母によって好きにならされたのかなぁと思うこともあった。
それ程、同感、共感者を得られない日本の現状に、引きずられそうだった。

徽宗の画は、中国美術でその上を行く者がいないと評されているとのこと。

これで人生の謎が一つ解けた。
書体も、ものすごいスピードで書くということは、シュナーベルは前世、この王様で、
それをキーボードで再現したのかと思う勝手なロマンすら感じる。
マン・レイは「人生と芸術は同じで、最後にはすべてのものが溶け合う」と。
ピアノの音で、あの書体・痩金体と風景画を味わっていたのなら、やっぱり好きな訳だ。



写真:国立故宮博物院所蔵 「宋 宋徽宗 詩帖」
http://www.npm.gov.tw/ja/Article.aspx?sNo=03000118




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by mhara21 | 2016-05-10 20:47 | エッセイ | Comments(0)

後追い日記1986年9・子供たちと音楽学校(4月)

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#4月・子供たちと音楽学校
 
4月、体調は良くならなかった。
今度は校長先生が推薦して下さったということで、ある女性から音楽学校のピアノの先生の仕事が来た。
ひどく長ったらしい名前からどんな名門校かと思ったら大違いだった。実際は各学校の放課後に出張教師を派遣して、1時間内に10人から20人にピアノを教える仕事だった。
1時間に$20の給料だというので引き受けた。所によっては雪も多かったり、あるいは吹雪の中、トロント市内や隣接する市の学校を訪ねて子供たちと触れ合う仕事は楽しかった。多くは低額所得の家庭の子供たちで、生活状況が肌を通して伝わってきた。

暴力が日常的なのだろうか、ピアノを教えていると待っている子供たちの平手打ちの音がパチンパチンと絶え間なく聞こえてくることもあった。ある日突然、パッパラケの母親が子供の義父に当たる様な若いロカビリー調の男性を連れて入ってきて「東洋のピアノの先生と写真が撮りたい」と注文した。そこで4人並んでピアノの前でパチリパチリとフラッシュをたいた。ピアノの椅子が無くて上に重ねることが出来るスチール製の椅子を5つ乗せて子供用の高さにしていたものだから、私はその可笑しさを堪えきれなかったから笑ってばかりいる写真になったことだろう。

大勢の生徒と付き合ううちにやり方を考えた。
まず始めに子供をおとなしくさせて、教師の言い分を聞いてもらうことにした。それはなぜ、歩いて学校に来ることとピアノを楽譜を見て弾くことが同じにならないのかの問いかけだった。

「例えば毎日学校に来るのに、ある時期になったら、足先でサグリサグリ道を歩くような人がいるだろうか? 最初から目印を探して、それを中心に道を覚えるではないか? 例えば目印をポストだとすると目で見ず手足で探りながらポストを確かめるようなことをしていると学校に着かないのと一緒で、音だけ探っても曲の終わりに行き着かないではないか?」
といったようなことをやかましい子供を黙らせ、20人に大声で話した。そして又、人が弾いている時に注意深く聴いて弾いている人が失敗しているようなことは繰り返さないで欲しいと頼んだところ、クラス中がおとなしく熱心になった。これで、子供から「あの人のレッスンが長いのに私は短くて不公平だ」とか「あなたはあの子ばかり目をかけている」とか大人並みの苦情が出なくなった。

私は私と取り囲んだ子供の前で見てはおれない頭の構図で、馬鹿げた登校風景と同じことをするかを、身体を使ってプレゼンした。
みんなのピアノ通りに歩いて見せた。
「来る日も来る日もこんな様子で学校に来る人がいますか?
どこに何があるかを知って、まっすぐ普通に鍵盤の上を指で歩いてください」
 
ピアノの所では、みんなで楽譜を見つめて
「ココとココは同じだから同じ動きをすればいい。一つ一つ弾こうとしないでね」
「人が間違えたら、なぜ間違うのか、考えてあげてね。
 自分の番が来たら、同じことをしないでね」

子供は厳かになることを楽しんでいるようだった。

レッスンの終りに私が曲を弾いていると、仕事帰りに子供を迎えに来た人達が子供と口々に「きれいだ。きれいだ」と目を輝かして喜んで下さった。

乗り物を乗り継いで見知らぬ小学校に入って行く時はワクワクした。
体調がよくなくて帽子やマフラーをどこに置いたかよく覚えてもいなかったけれど、帰る時いつも置いたと思う場所にはなかったと思うのは、貧しい地区への偏見なのだろうか?
それでなくとも、トロントではよく物が失せた。

数週間すると休暇を終えた前の先生から電話がかかってきた。
「子供たちが素晴らしいの。一体何の魔法をかけたの?」

紙の上でピアノの練習をする最低賃金のおうちの子供たちだったけど、奮戦する私を見て何かを感じてくれたのかも知れない。
対人関係の下手な私は、人間相手は得意ではなかった。
帰国した後、ほんの短期間、英語の先生をしたけれど、私の生徒を後で引き受けた先生が「物を習う姿勢ができていて、教えやすい」と言われた。
地下鉄、バスではるか遠くの場所に出かける事も一人で生きている私には慰めになった。

ヘンリー・フォードがこう言っている。
“ When everything seems to be going against you,
remember that the airplane takes off against the wind, not with it.”
「あらゆる事が自分にとって向かい風のように感じられる時には、思い出しなさい。 飛行機は追い風ではなくて向かい風の中で離陸することを」

出来ないことがいつか出来るようになるように練習法を考えることは、挫折だらけの時にも有効に働くと思う。
苦手なこと、例えば「そうじ」でも流れに乗せてするような習慣プログラムを組むのもいい方法だ。

学校では時々先生が残っていて、優しく迎え入れたり、あるいは「私の縄張りなのよ」式の対応をしたりで、人ってそれぞれだなぁと思った。
最後の方は病気で授業が出来なかったけれど86年の早春の思い出としては充分な出来事だった。




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by mhara21 | 2016-05-05 00:00 | 後追い日記86年 | Comments(2)