合い言葉GG
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☆マサコのプロフィール
13才のときにグレン・グールドのピアノに 出会う。以来抱き続けたグールドに会うという夢を追って28才でカナダへ。後追い日記はその記録である。
属性はシャーマン。


☆ミクシに習って、ぬさんからの紹介状
不在の幻影から愛するひとを救い出し、グーグルキャッシュの中に愛のエクリチュールを刻印しつづける、GGの恋人。二人はもう触れあうことができないが故に永遠に惹き付けあうことができる、まるで恒星と惑星の関係のような、あらゆる恋人が夢見るユートピアに住むひとです。


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カテゴリ:グ−ルドとエクスタシー( 4 )

グールドとエクスタシー4

グールドとエクスタシー1から読む

 「グールドを聴くことは、グールドと恋愛することになる」と言った女性ファンがいる。生前、グールドはファンから、幻想的性交渉の相手(いわゆるオナペット)にされたりエロチックな内容の手紙を受け取っている。

 ハンサムで独身のグールド。グールドの音楽に慰められたファンが人生の苦しさから彼に希望の光を見い出して、救いを求めるのは当然かも知れない。グールドのレコーディング・プロデューサーであったアンドリュー・カズディンの著作には、そうした逸話がいくつか載っている。

 グールドは、トマス・マンを愛読していた。マンの著作を読んでいるとグールドの死生観やシャーマニズムに対するものの見方はマンから影響を受けたのではないかと感じる。
 
 トマス・マン研究家のミハエル・マールの著作『精霊と芸術』では、今までのマン研究家が決して触れなかった「降霊会」の解説が「ひどくうさんなこと。その一・二」として微に入り細に穿って分析される。

抜粋すると
「最後の交霊会で起こる最初のスキャンダルは語り手がこの交霊を出産として描いている点である。死者が生まれる、つまり再生するのだが、それはまだたいしたことではない。
 霊媒のエレン・ブラントは出産するばかりか、この出産行為は同時に性行為でもある。」「つまり霊媒は一気に性交し、出産し、死ぬのである。」


 グールドは、常に性交と出産を同時に行ない、「永遠」と言う名の赤んぼうを音楽で生み出し続けたシャーマンではないのか?

 その意味で音楽上の「グールドの死」とは「オルガスムスの死」に通じる迫力がある。
それは、人が性を通して一元的な世界に辿り着きたい欲望をも満たせるものではないだろうか?
そして、グールドの「エクスタシー」とは、このことを含んでいる言葉ではないだろうか?
グールドがピアノを通して昇華することは、D・H・ロレンスが性行為を通して宇宙と一体になることと共通部分がある。

 神々との霊的な交流に際して味わう、「神秘的恍惚感」をファンたちに分け与えたのが、グールド音楽の特徴の一つ。ファンとしてはそのことを宗教的、性的、精神的、あるいはそれらの混ざりあったものとして、テクノロジーを通して、こちら側の反応と共に(一対一の状態で)、震え上がるような幸福に辿り着く。

 グールドと共に創り上げる恍惚感。それは自分から離れて宇宙を翔んで歩くあの世の美しさにつながる自由が与えられる。
 デモニッシュ(魔神的)な表現で神霊的なエネルギーを人類に伝えたグールドこそは、正に「エレクトロニクス時代のシャーマン」といえよう。



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by mhara21 | 2007-02-25 11:30 | グ−ルドとエクスタシー | Comments(0)

グールドとエクスタシー3

  ここでグールドに関する、もっとも崇高なエッセイを書いたミシェル・シュネデールの著書『グレン・グールド ピアノ・ソロ』から一部引用する。

「グールドは音楽が快楽を思考するものでありうるなどとは思ってもみなかった。そして彼自身、問題の核心を明らかにするために、あのエクスタシーという語をもちいている。
あまり音楽家が使わない言葉、どこか世紀末的な匂いがただよい、中世の神秘思想のこだまが聞こえる言葉である。それにまた、エクスタシーの肉体となろうとしておこなったテクノロジーの実験の数々とは奇妙なまでに不調和だ。

彼によれば、エクスタシーとは、音楽、演奏、演奏家、聴衆を、たがいに内面を共有するという意識の織物において結びあわせる繊細な糸なのである。演奏についてエクスタシーという側面からなされるこのような理解は字面の理解と対立する。音は記号である。音は道を語らず、ただ出発点を教える。……中略…………

 おそらくどんな大ピアニストでも、このようにして音楽と出会う人間はほかにはいない。容赦なき神との出会いを思わせるのである。この神に仕えるにあたっては、神から愛されたり、神の力で愛される存在に変えられるなどと期待してはならない。たぶん音楽は自己の消滅を命じてはいない。

グールドの神——音の背後に彼が探していた神のことである——は新約聖書の神、愛の神、恩寵の神ではなかった。それは旧約聖書の神であり、正義と恩義の神だった。……中略…………
 
 それにしても、どうして磨き抜かれた音楽家と完全に狂気の徴候を見せる人間というふたつの側面を区別しなければならないのだろうか。どうして厳密な者と幻視者という姿を心にとどめ、奇妙な癖に痙攣し、ひどく小さな椅子にのけぞって座るからだや、奇怪な習慣が棲みつき完全に儀式的なるもののうちに封じ込められた疲れた姿のほうを忘れなければならないだろうか。

まさにこのような行動の奇矯さを通して、あの中心の不在、あのような自我の嫌悪もまた表面に浮かび上がってくるのではないだろうか。

神秘思想家の語るエクスタシス(εχστασιζ)とは、まさしくそのこと、つまり自己の不在、自己の外に出るということなのだ。社会的行動の面での奇矯な振る舞いは音楽のエクスタシーの裏返しであり、それはグールドにおける激しくも錯乱に満ちた音楽の探究、すなわち彼自身ではないもの、もしくは彼が存在しなくなる地点として音楽を探究するなかで、グールドを聴衆から保護してくれるものだった。」


グールドとエクスタシー4へ



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by mhara21 | 2007-02-25 11:27 | グ−ルドとエクスタシー | Comments(0)

グールドとエクスタシー2

 普通には、「天才」とか「才能」で片づけられるグールドの演奏中の状態は、極めてシャーマニックなものであった。本人も薄々感じていたから、シャーマンとしてのエクスタシーの言葉を知らず知らずの内に語っていたのではないか?
 ここで神経科医のリチャード・E・シトーウィックの著作『共感覚者の驚くべき日常』からの引用でグールドの「エクスタシー」を考察する。

「共感覚は情動的、ノエティック認識的である。共感覚者は自分の知覚しているものが現実であるというゆるぎない確信をもっている。彼らの知覚はいわば〈エウレカ〉を、つまり電球がぱっとついたようにある洞察がひらめく感じ(「それだ」という感じ)をともなっている。まちがいないという感じはそれほど強く、かならず存在するからには、辺縁系共感覚に関係しているはずだと私は考えた。

 辺縁系は皮膚よりもずっと古い部分で、情動や記憶に関与し、個人が自分の考えや信念に付与する確信を生みだす。私は共感覚の体験に情動と確信が付随するところから、エクスタシーとして知られる一時的な自己の意識の変化について考えた。エクスタシーとは、思考力を奪い、しばらく正気を失わせるような激情を指す。ウィリアム・ジェームスは、神秘的な体験について論じた著書『宗教的経験の諸相』のなかで、エクスタシーが言葉で表現できない、受動性、認識的性質、暫時性という四つの属性をもつと述べている。共感覚にもこれとまったく同じ属性がある。

 ノエティック認識的(noetic)〉というめったに使われない言葉は、知性あるいは理解を意味するギリシャ語のnousからきている。それは私たちに〈知識〉をあたえるものであり、直接経験される知識や確信感をともなう啓示を意味する。それはリアリティの表面を突き破り、超越的なものをかいまみせる。ジェームスは〈認識的な真実〉と、それらの状態が与える影響力について述べている。

『神秘的状態は感情の状態に似ているが、体験者にとっては、知識の状態でもあるようだ。論証的な知性ではうかがい知れない、深い真実を洞察する状態なのだ。それは明瞭には言いあらわせないながらも、啓発であり、啓示であり、意味と重要性に満ちている。そして原則的に、奇妙な影響力があとまでつづく』」


 グールドは色聴のある共感覚の持ち主ではなかったが、色彩に対して原色嫌いであった。その恐るべき記憶力からしても、彼が共感覚者に等しい優れた才能の持ち主であることは想像できる。

グールドとエクスタシー3へ



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by mhara21 | 2007-02-24 17:16 | グ−ルドとエクスタシー | Comments(0)

グールドとエクスタシー 1

 グールドという人は優れた音楽家であると同時にシャーマンでもあった。
 グールドは、自分の芸術を表現する言葉として「エクスタシー」を連発した。
 エクスタシーの語源が「孤独であること、自分の外側に立つこと」を意味するなら、グールド程、この言葉にふさわしい音楽家はいない。彼は、自分に酔いしれて、リズムを狂わせても気づかない演奏家ではなかった。外側から演奏をコントロールする空間があった。つまり自分の演奏を他人の演奏のように聴いていた美しい余裕が感じられる。

 エクスタシーは、宗教的神秘体験をいう言葉でもある。「入神の名演」という表現があるとおり、グールドはピアノに対して、すぐトランス状態に入ることが出来て、神を迎え入れる可能性に恵まれていたのだと思う。神秘的なグールドの演奏は「大乗仏教」に等しい神エネルギーを感じる。

 柳澤桂子著『われわれはなぜ死ぬのか』より「宗教とエクスタシー」に関連する内容を引用する。
「バラモン教にしても仏教にしても、その語源にあるのは、主客一元的なものの見方であり、自我の無を求めるものである。このようなものの見方は、多くの宗教、あるいは哲学に見られるものであり、人類史上、あちこちでそれぞれ独自に生まれている。

 このような、一元的なものの見方やアニミズムは、人類にとって原初の感覚なのではなかろうか。自我の確立の未熟な、したがって主客一元的なものの見方をする時期、周囲のものに自己を投影して、自分の分身やいのちの再生を感じる時期を通って、現在のようなはっきりとした二元的な認識を持つようになったのであろう。神話にはこのような人類の精神発達の過程が読み取れるとされている。

 人類の意識の進化とともに、主客二元的なものの見方が強くなったのちも、われわれは、はげしい踊りや呪術者や薬草の助けをかりて主客一元的な世界にもどれることを知っていた。恐らくそれはエクスタシーと呼ばれる状況であり、そこには脳のなかから分泌される麻薬物質が関与しているのかもしれない。

 このような宗教の流れを探ってみると、われわれは早くから、非二元論的な視点に立てば自己を無にすることができ、自己の消滅というおそれから逃れられることを知っていたことがわかる。そのような思考をはげしく追求し確立したということは、その時代の人々が自己の消滅に対するおそれを強く持っていたことを示すものであろう。」



グールドとエクスタシー2へ



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by mhara21 | 2007-02-23 14:21 | グ−ルドとエクスタシー | Comments(1)