合い言葉GG
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☆マサコのプロフィール
13才のときにグレン・グールドのピアノに 出会う。以来抱き続けたグールドに会うという夢を追って28才でカナダへ。後追い日記はその記録である。
属性はシャーマン。


☆ミクシに習って、ぬさんからの紹介状
不在の幻影から愛するひとを救い出し、グーグルキャッシュの中に愛のエクリチュールを刻印しつづける、GGの恋人。二人はもう触れあうことができないが故に永遠に惹き付けあうことができる、まるで恒星と惑星の関係のような、あらゆる恋人が夢見るユートピアに住むひとです。


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後追い日記1986年21・クバレックとの勉強(11月15日)

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#11月 15日クバレックとの勉強

クリスマスが近付くと恒例のグリンガス教室の学生コンサートがある。私は小さな子供たちの曲を丁寧に稽古した。アナと言うシンガポール系中国人の少女はバッハのト長調の曲と2フレーズの小曲を弾くとになった。私は時間が合わないのでアナの家まで言ってリハーサルをしようと思った。住所もウロ覚えで下宿を飛び出して1日中いろいろなことをして夜、エグリントンの駅から歩き、着いた家は違う家。親切なその家の人のお陰で歩きに歩いてようやく辿り着いた。「駅から歩いて来た」と言うと皆、目を回していた。

食事の仲間に入れていただいた後、リハーサルをした。アナに「ゆっくり弾け」と母親が言った。それに対して私は「音の質で早く弾いたように聞こえたのだから、アナ、こういう音で弾いてごらん」とピアノでその音を出した。アナはその真似をした。テンポは変わらなかったけど、今度は音の膨らみでゆっくり聴こえた。美しい音楽になった。母親はびっくりしていた。帰りはご主人が車で送って下さった。ご主人は何だか思い詰めたような顔をしていた。食事中バンクーヴァーで生ウニをどれだけ沢山食べたかとか話していたけれど食事中にまだ食べ物の話しをする健啖家であった。
後日C夫人は「主人は『マコが賄い付の下宿に暮らしているとは信じられん。あの痩せようは何だ。時々家に招いてご飯を食べさせてあげなさい』と言っているのよ」と話して下さった。

「子供の演奏者はいつヴァイオリンの弓を振り上げて弾き出すか分からないから気を付けなさい」とグリンガス夫妻に言われていたが、本当に同じことよく起こった。でも本番ではぴったりあった演奏が出来てホッとした。
 
どれもこれも楽しい仕事だった。この慎ましやかな仕事は音楽の喜びに溢れていた。「ぜひキワニスで私の生徒の仕事をしてください」と頼まれたが断わった。引っ越しも考えていたので、あれこれ手を出す気にはなれなかったのだ。


ピアノの生徒たちは主に台湾教会のある場所でレッスンしていた。
Mr.Kとの前期が終った。指使いも何も皆、楽譜に書き込んで下さるので嬉しかった。マリーナは『いい加減自分で考えたらどうなの?』という感じだったので、『先生を変わるのも悪くないなぁ』と思っていた。

マリーナとクバレックの先生としての違いは、すぐにわかった。マリーナの明敏さがクバレックにはなかった。クバレックはその頃夫人との別居に踏み切ることで、相当辛い時期を送っていたと思う。
ベートーベンのバガテルを弾くように勧めてくれたことには感謝しているが、それによって私の体力には余分な重荷となり体がつぶれたことも事実だった。このあたりの読みがマリーナと違い不的確であった。

マリーナほど、優れた教師はいなかった。
1年目はできないことは全く要求せず、2年目はただただ生徒を鍛え上げた。そして3年目になるとひたすら生徒が自立するようにハッパをかけた。
『指使いは書き込まないのよ。プロとはそういうものよ。プロの楽譜って何も書いていないのよ。』私が指使いを書くのすら、ダメだと言っていた。

グールドの楽譜は書き込みが多いようだ。
彼にとって楽譜など録音の際の『見取り図』にすぎなかった。ギーゼキングと同じでフォトグラフィックメモリーの持ち主で、弾く前に楽譜が頭に入るタイプであった。

私も阪神大震災の前は、フォトグラフィックメモリーがあった。ご丁寧に指使いや書き込みまで頭の中に出てくるコチコチタイプだった。指使いの数字を覚えているだけで音符を忘れない自信すらあった。

グールドとクバレックには奇妙な話がある。クバレックからグールドのプロデュースによってコルンゴルトのピアノソナタを録音した話は聞いたことがない。ところが、グールドのプロデューサーだったカズディンの本には、グールドが自分がプロデューサーになった時の感じをしゃべっている個所がある。
その録音は今はCDで聞ける。
おおよそ、グールドの好みの音楽とは思えない。
勿論、CDでもグールドがプロデュースしたことになっている。グールドのライナーノーツもある。でもクバレックの口から、「グールドに会ったことはない」と聞いているので、どういう事情だろうと考えてしまう。

何はもあれ、下宿で、心に愛のないわがまま、気まま、チャランポランの痴女とはいかなるものか、もう2ヶ月勉強しなければならなかった。
11月に「教会のクリスマスコンサートにブラームスを弾いてくれませんか?」と顔見知りのドイツ人に頼まれていた。
ブラームスを弾くのはほぼ初めてだった。

12月のコンサートで、本場ドイツの人々から大拍手を浴びた3人の音楽家。演奏後、お祝いの言葉をいただいた。
私は密やかにグールドがどんなに喜んでいるだろうと思った。
あれこれピアノのレッスンをこなし、場所を貸してくださる人から「疲れ切っているよ」と心配されたけど、大した仕事をしているとは思わなかった。
何もかも結局はフル回転の1年だった。
音楽で高揚しつつも、すぐに疲れで体が壊れてしまう。その両極端の学生の生活。5年目の2/3の学期が終わろうとしていた。


86年のクリスマスもニューヨークで過ごした。一度も行ったことのないエンパイアステイトビルディングを遠目から、眺める毎に
——いつかきっと偉い音楽家になるのだ ——
という闘志が燃え上がるのを感じた。



86年23・グールド家訪問(12月1日) へ






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by mhara21 | 2016-11-15 00:00 | 後追い日記86年 | Comments(0)
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